h-tg2’s diary

日々の雑感、投資、アートなど色々

芸術とプロパガンダ

大学時代に、写真史を授業で取っていたのですが、その授業が面白く、先生に授業で使われてない映像を特別に見せてもらったり、近代美術談義をしていたのをふと思い出しました。

 

芸術が世の中に役立つのは難しいという視点がありますが、プロパガンダを見るとその意見が一蹴されることが分かります。

 

写真、絵画、彫刻を極め、支持を集めることができるようになるということはどういうことかというと、人々が意識的もしくは無意識的に触れる、制作されるときに人の意思が関わった「何か」に圧倒的な力を付与できるという事になります。

 

それは、近現代でいえば、テレビや雑誌に出てくる広告という形で私たちの目の前に現れたりします。

溜息が出るような美しい風景の「映像」を映し、そこへ旅行へ行きませんか?と誘う。

その風景はタダの風景の「映像」ではないのです。例えば10人中8人から、この風景の「映像」は とても 美しい、という評価を得られる風景なのです。プロの作家というのは、視覚を通して、対象物の魅力をどれほど伝えることができるかが問われるのです。最大限にその魅力を伝えることができた者が、時代の先端の芸術作家となるのです。※(彫刻の場合には、そのものが物体のため、視覚だけではなく、空間認識をも通して魅力を伝える、ということになるかと思います)

 

旅行へ行く場所や、グルメ、あるいはブランドの衣類などの写真や映像にそれが利用されているのは良く分かると思います。

 

それは芸術作家が金銭を得る手段として一般的であり、情報を発信する産業や我々にとってもメリット(満足感)があるものです。そして、支持を得られる芸術作家はより高く便利で高品質な品物を販売するための、その品物の魅力が最大限伝わる作品を作ることでより高い金銭を得る事ができるため、芸術を極めるということは、社会的にも意義があることとみなせます。

 

しかし、残念ながらそれは政治的に利用されてしまうこともあります。

視覚で認知されるその作品が、圧倒的な支持を集められるが故に、その支持を政党の保持や更なる支持獲得に利用されることがあります。

 

代表的だと思われるのが、1936年にレニー・リフェンシュタール監督によって撮影されたドイツオリンピック「オリンピア」。

私は、この映像を初めて見たときに、まさか1936年に撮影されたものとは思えませんでした。

圧倒的な映像美で、ナチス党員達はヒトラー指導のもと、このようなオリンピックを開催できたことにアーリア人としての誇りを刺激され大いに沸き立ったことが想像できます。

 

この「オリンピア」、見たことがない方は是非少しだけでも見てみてはと思います。

(できれば音を消して見てみてほしいです。現代でも十分に影響を及ぼせそうな映像美です)

 

レニー・リフェンシュタール監督 「オリンピア

映画「民族の祭典」 "Olympia" 開会式

 


Diving in 1936 Olympics

 


Leni Riefenstahl: Olympia Festival of Beauty (1936)

 

いいですか?もう一度言います。これは1936年に撮られたものです。

 

大変美しいのですが、これはプロパガンダです。

この時代にあって、映像がプロパガンダに多いに利用できるということが認知されていたということが分かる良い例ですね。

 

作家が、金銭的な問題のため明確な認識を持ってプロパガンダ映像の作成にかかわる場合もゼロではないかと思いますが、気が付けばそれに関わっている場合もあるのではないかと思います。

(※心理学の研究は進んでおり、本来には興味がないことにも何度も何度も刷り込みが行われることによって本当にそれに興味があるかのような状態となり、思いもよらない出来事に加担しているような場合。)

 

もちろん、非常に高い理念や思想、アクションプランを有する政党のプロパガンダを行う場合には、本当に世の中の役に立つプロパガンダになると思います。

 

また、「オリンピア」のように特定の政党を大いに支持しないでも、オリンピックの宣伝に楽しさや喜び、興奮を伝えられる宣伝を作ることも芸術作家としてのプロパガンダとの良い関わり方かと思います。

 

(日本の政党のポスター作りは、規制がちがちでプロパガンダが入る余地が少なそうなのは良いことですね。)

 

つまり、芸術が世の中で役割を持つとはどのようなことかと言うと、

①情報の受け手に対して、その対象物(情報)の魅力を最大限に伝える機会を有する

②プロパガンダとの良い関わりを持つ

 

という2点ではないかと思います。

 

②は、裏を返せば、芸術家がある思想を以て作品を作れば、その方向へある程度の人を動かせるということを意味するかと思います。

 

さらっと書いてますが、大衆思想コントロールに通じる、すごーいことなんです。

 

現代美術について、一時期東南アジア系の芸術家がその兆候を満々を見せていましたが、それはまた別の機会に書くこととします。

 

今日はこの辺で。